文化(および文化財)がもっと市民の身近になるために
                                 09.07.17
 
 文化について、専門的視点からではなく身近な市民生活の延長
でフランクにかかわることが必要と考えて、教育の立場から各種
提言したくなり、ここに筆をとった。


  文化に造詣深い方々が率先して文化を創造し文化財を保全し
ていく責務のあることはいうまでもないが、問題は文化を支えるあ
るいは文化の担い手である一般市民にとって、文化がことのほか
縁遠い面が多々見られることである。昨今、文化立国、文化立県
をとなえるならばなおさらのこと、市民に縁近いものとなるにはど
うすべきかを、広く市民を巻き込んで考えていくことが肝要である。

 今またなぜ文化が縁遠いといわれるようになったのか。いや文
化財はしっかりと保全され、文化財を核にした観光は十分に成立
しているではないか、といった意見があることは事実であるが、そ
れでも日常において、我らの生活において文化財がどれほど寄与
しているといえるのであろうか。(寄与して欲しいから逆説的問いか
けをしているのである。)

 では、我らの生活はどうか、ふりかえってみると、我らは効率優先
や利便性および欲望追求のいってみれば今日的大量生産大量消
費文化のなかで営んでいる。こうした営みの中では、今いう文化の
みが唯一であり、これを越えたものあるいはこれまでのものは単に
商品の一部といった感がすることもある。文化に縁遠いとは、まさに
そのような状況をいうものである。

  では、どうするのか。まずは、我らの生活が本当に今のままでい
いのか、そんな根源的なところから考えていけば、おのずと大量生
産大量消費文化ではなく、次にあるべき文化が造られるとともに、
過去の文化がよみがえってくるのではないだろうか。

  大上段に構えたが、要は、日常性に文化をどのように育んでい
くのか、ということにつきる。それには、教育の役割に期待したい。
すなわち、自分らの住んでいるところに文化が感じられるようにす
べきであり、また学校の初等中等教育において歴史教育などを含
めて、生活感が漂うようなものであるようにすべきと思っている。

 たとえば、初等教育において一般教科(理科算数など)の場合でも、
日常生活に立脚したストリーとすべきであり、加えて自分らの住んで
いる街においても生活感が街中に漂えば、それはとりもなおさず文
化なのであり、ひいては、地域の文化保全というべきか、あるいは
健全な地域づくりともいうべきか、そうした地域づくりの生活次元か
らの下支えそのものとなる。

  そしてまた、我らの(文化に対する)姿勢を確たるものにしたい。
先人たちから受け継いでいる姿勢は、今あるものがすべてだめで昔
に帰れとか、今までとは別にまったく新しく何かを作ろうといった二者
択一論的なものではない。現在は過去の延長であり、将来は現在の
延長であることを考えれば、大量生産の文化を経たからこそ、ある
べき文化の姿が洗練されて造られるものがあるはずである。だから
こそ、来るべき時代には、文化の人間的側面や、文化を担う精神性
がもっと問われ、その意味では人間が一回りも二回りも精神活動の
面で大きく進化しなければならないといっても過言ではなかろう。

 こうした展開を可能にするには、やはり全国津々浦々、人間らしい
生活を、言い換えれば健全な人間生活を営むことから始め、文化を
創るといった感覚の定着が必要不可欠であると思っている。

  こうした取り組みは、本当に多種多様な方々の集まりでもって推進
され、おおきなうねりとしたいものである。



<戻る>