学園便り 2007.07 ***********************
「食とコミユニケーション、大いに楽しみましょう」 富樫豊
私があるグルメ番組に素人コメンテーターとして出演したとき、「なぜ人は食し
てコミユニケーションするのでしょうか」と尋ねられ、「なぜかしらねえ」
と相手に同
調しながら「コミユニケーションと食」について語ったことがあります。
もともと、問いかけのきっかけは「食とコミユニケーションが今まさに歪な状態
にある」というところにありました。確かに、食については食の安全性の問題、
飽
食の問題、飢餓の問題などいうならば食生活の貧困化・不均衡があり、またコミ
ユニケーションについてはシステム的な人間社会に内含するコミユニケーショ
ン
不足が取りざたされています。「歪な状態」とはまさにそれであるということができ
ます。
では、なぜそのような歪さが今日的に取りざたされているのでしょうか。まずは、
食とコミユニケーションの根源から考えてみます。動物学によれば、我ら人類
の祖
先が集団で狩をするときに声で合図したのがコミユニケーションの始まりであり、ま
た食とコミユニケーションのリンクについては、獲物を分け合い、動物
のようにうめ
き声をあげながら食していたことが起源であるといいます。そうした本能的なものが
理性にとりこまれ、人間独自のコミユニケーションとなり、コ
ミユニケーションはまさ
に生活の文化的な営みの源となったといえるでしょう。
次に、そうした根源が現代文明社会にどう埋没しているのでしょうか。ここで、我
らの日常生活に視点を移し、食とコミユニケーションについて身近な事例をい
くつか
挙げて考えてみることにします。
(1)
家庭における孤食;家庭では(小さな)子供が家族と一緒に食事をとることが少
なくなっており、家族構成そのものがゆらぎかけています。また、「暖かな団
欒」の
暖かさはいつのまにか温度そのものを意味し、「暖かい食事ならならレンジでチンす
る」と。(あれ、れ、れ。子供のみならず大人の孤食も本当は問題で
すよね。)
(2)
人間関係の輪の狭まり;(どの職場でも似た話があると思いますが)職場全体
で忘年会や歓送迎会以外の食とコミユニケーションはなかなか成り立たちにくいと
い
います。理由は、「昼にあの顔を見て(上司のことのようだ)、夜に何であの顔を見て
食するのか、食がまずくなる」というのだそうです。何事にも気の合っ
た者どうしでと
のことなのでしょう。老若男女、おおらかな交流はどこへやら。
(3)
コミユニケーションの重要さを教育;ある学校のゼミにて会食会が企画されたお
り(どこでもありそうな)次の会話がありました。学生が「金がないから欠席し
ます」。(コ
ミユニケーションを大切にする)教員は「ばかもん、借金してでも出て来い」と。若者気
質の一断面なのでしょうか。
(4)苦労をともにすれば楽しいコミユニケーション;本学では、毎年、卒業生が卒業パ
ーテイを企画し、先生方を招待して学生時代最後の瞬間をコミユニケー
ションによ
り大いに楽しんでいます。そこでは、卒業制作の苦労話や学生同士切磋琢磨の話な
どで、夜のふけ行くのを忘れるかのようです。いい話でしょう。
(5)粗末なものでも美味しい;山のぼり。山頂でお昼になり、インスタントラーメンを食べ
ることもしばしばでありますが、これがまた格別においしく話もは
ずみます。いい話で
すよね。
ちょっと書きすぎたかもしれませんが、項目(1)-(3)の例を挙げるまでもなく、日常生
活における食とコミユニケーションには確かに危うさが感じられま
す。しかし、そうし
たなかでも例えば項目(4)、(5)のように、我らは結構自然体で楽しんでもおります。ただ
そうした楽しみを味わうことが日常において
難しくなっているといえます。日常の社会シ
ステムそのものが、何か人間味のある楽しみをもしかすると奪っているのではないでし
ょうか。我らは、そうした日
常においても自然体で本能を呼び戻し、自然体で味わい楽し
むことにしたいものです。コミユニケーションとは、相手とともに(食を介し)五感を総動員
した体
全体の行為そのもの。大いに味わい楽しみましょう。
<戻る>