街中ゆったりカフェ、歴史 7月例会(7/23)  14年7月23日記述 今回の様相 今回は、特別仕立てで歴史談義「中世、黒川遺跡」について、三浦先生から お話をいただいて、談義を楽しんだ。 記録:三浦先生の語りを以下のように文章化しました。ニアンスや正確さにつ いてチェックしていませんが、会の様子葉伝わるかと存じます。なおイタリク体文 は編者の勝手な追加文。 ■1.中世をどの年代とするか ・一般には、中世は武家政権以降すなわち鎌倉時代以降とされている。しか しながら、律令制が崩壊して天皇家以外の方が世俗権力を握るようになり、 ここからが中世にという考えもある。(また院政時代からという考えもある。) ■2.立山信仰 ・立山信仰のルートについて 信仰の経路としては、岩峅・芦峅のルート、大岩、黒川、早月、片貝などの ルートがある。岩峅・芦峅のルートは加賀藩の時代になって藩にとってドル 箱として定着。ただし、加賀藩以前にはルートに関する記録はない。 黒川ルート他は加賀藩が統治する以前に廃れてしまったとみられている。 ・ルート沿いの石仏について 岩峅・芦峅ルートには、岩峅から室堂までに33箇所に石仏が設置されている。 もともとこのルートは当時からも観光用となっていたので、地元の資産家た ちが寄進したといわれている。 ■3.上市黒川遺跡群  (円念寺山経塚 黒川上山墓跡 伝真興寺跡)  黒川遺跡は上山墓跡、古寺跡、京塚の3箇所をもって史跡に指定されている。 もともとは、h8?年に黒川地域の道路建設工事に際して行われた調査で上山 墓跡が発見されたことから始まって、関連の遺跡が発掘された。町は道路の 経路変更により遺跡を保護し、町指定の遺跡とした。その後、史跡はh18年 に国指定となった。 ・遺跡調査は、ほとんどの場合、道路建設などの工事がきっかけである。道 路が遺跡を避けるか、遺跡の上を通るかで、対応が異なってくる。前者の場 合には遺跡は史跡として指定を受けて末永く保存できる。後者については、 徹底調査により記録を残し、遺跡は埋めてしまう。 ■4.国の史跡指定 史跡が見つかってから指定を受けるまでには、土地収用という大変な仕事が ある。対象となる土地では財産相続がされていない場合がほとんどであり、 当時から何代も下って(末代まで)、地権者に実印をいただきに駆け回ること もある。極わずかだが土地収用に反対される地権者もおられる。(地権者は 黒川の場合100人未満。砺波の増山城では500人) その後、町は保存管理計画を策定しh18年に国の指定を受け、h23,24には整備 活用基本計画を策定した。結局、町はH8年から段階を追って粘り強く整備し 今日に至っている。文化関係は長丁場の仕事といえる。 ■5.中央と直結する上市 全国的にも珍しい一級の遺跡群がなぜ上市にあったのかの理由について、黒 川地域をながれる郷川の下流には堀江の庄という京都祇園社の社領があった (元は藤原氏の荘園、藤原氏が寄進)。黒川域は荘園の方々が管理していた ようだ。 時代が下って、土肥氏は荘園管理で相模からやってきた。彼らは禅宗をバッ クにしているため、山岳密教的な黒川の諸施設は彼らの庇護を受けることな く廃れていった。 ■6.黒川上山の墓跡 ・平安末期から鎌倉時代に作られた密集して築かれた墓67基。墓跡の広さは 10数メートルくらいで、墓一個一個は1-2メートル高さの土饅頭のようになっている。 石室や石塔があり、その中には骨壷があり、そのまわりに、短剣が突き刺す うに数本おかれ、また上部には(手鏡サイズの)鏡が置かれていた。 ・一般に、中世の墓が墓単独で存在することはなく必ず宗教施設が周辺にあ る。黒川の場合もこの考えに従ってh8から開始した調査により、古寺跡と京 塚を発見した。 ・骨壷は珠洲焼きのものである。珠洲焼きは平安期から室町期まで東北日本 海側に広く伝わっていた。余談だが、その後は越前焼きになったという。 ・中世、焼き物三点セットと呼ばれるものは、壷、亀、すり鉢である。 ・なぜ多くの墓があったのかにういては、やはり豪族がそれだけいたと解釈 できる。ただし、彼らは都人ではなく荘園に関係した地域の豪族であろう。 ■7.古寺 平安中期頃の密教である真言宗の寺院。本堂、塔、山門、池などを配してい たとされている。 ■8.経塚 ・平安末期から鎌倉初頭の経塚。平安末期の末法思想によって、経典を後世 (56億7千万年後)に残すためのいわばタイムカプセルが経塚である。ちなみ に、仏教では一番大事なものは仏像でも寺院でもなく、教義を記した経典(お 経)である。 ・経塚に入れたとされる経典は紙製のものや布製のものであったとされている が、発掘したときには長年の酸化作用によりそれらは朽ちて土のようになって しまっていた。 ・黒川の経塚は24個(以上)あり、すべて同一時期に作られた。 経塚が群をなす例は全国では那智、熊野、彦山の三箇所であり、しかも各地域 の経塚は同一時期ではなく長い時間をかけて少しずつ作られ群になった。 ・郷川が上流側にY字形分岐するが、このY字をなす尾根に経塚がある。尾根 筋に沿って経塚がある。なぜ、尾根筋なのか。経塚が西国浄土を見据えてい たのかもしれない(し、一番目立つところということなのかもしれない。) 尾根の一番高いところに基壇があり、そこで祭事が行われていたようである。 ・出土品には密教法具や中国製陶磁器がある。 基壇のところには「とっこしょ」がおいてあった(発掘の時には土がかぶっ ていた) また、「銅けい」もあった。これは本来寺院で使われるものである。日用品 が経塚に埋められていたことは大いなるミステリーである。